1947-

日本の広告産業の近代化に生涯を捧げた

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吉田秀雄(電通第4代社長)は、日本広告界の近代化と
商業放送におけるCMのスタートに貢献

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第二次世界大戦が終わるころには、銀座の大部分はくすぶるように荒廃した。不思議なことに、電通本社ビル(銀座)は生き残り、戦後の時代が始まったのはここからでした。1947年6月、吉田秀雄(1903~1963年)が第4代の社長に就任し、日本の広告を近代的で科学的な根拠に基づくビジネスに変革していくことを決意。吉田社長の強いリーダーシップのもと、社内の雰囲気は活気に満ち、電通の従業員数は急速に増加していった。

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1950年代前半、商業放送の誕生により日本の広告媒体に革命が起きる。日本テレビ放送網は、商業ラジオ放送開始からわずか2年後の1953年に、日本初の民放テレビ局として放送を開始しました。その後、全国で急速にテレビ局が開局し、民放の時代が始まりました。吉田社長は、商業放送とテレビ広告は、電通と日本の広告業界全体にとって新しい未来であると強く信じていた。

吉田社長はこうした新しいメディアの普及に力を注ぎ、次の成長ステージでの飛躍に向けて大きな弾みをつけた。また同時期、戦後の紙不足が緩和され、新聞が再び自由に競争できるようになったことを受け、日刊新聞の全国発行部数が急増した。吉田社長は、広告料金設定の透明性を高め、第三者機関の設立により監査済みの発行部数を提供していくことで、新聞広告業界の将来の健全性確保に努めた。

1955年、記録的な高度経済成長期を迎えた当社は、社名を「電通アドバタイジング(株)」と改めました。広告分野に特化した企業になって20年が経ち、電通は近代的な広告会社への発展の道を歩み始めた。

  • 写真1:
    「広告の鬼」として知られる吉田社長は、「心の人」としても知られていた。
  • 写真2:
    1955年2月4日、吉田社長は経営会議の早朝会議を開催。
  • 写真3:
    日本テレビは開局直後に街頭で番組を放送。日本の世帯におけるテレビ普及率は非常に高く、1964年には80%を超えた。

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